伯夷列伝第一 vol.61


 孔子は70人の門弟のうち、ただ顔淵ひとりを「好学の士」と賞賛していた。
 その顔淵は、短い生涯の大半を貧乏暮らしで過ごし,粗末な食事で飽きることがなかったという。
天が善なるひとに報いるという運命とは,何なのだろう。


 かたや,著名なマフィアのボス盜蹠は、毎日罪なきひとびとを殺し、人肉を喰らうなど暴虐をほしいままにして数千人の手下を従えて天下に横行したが、天寿をまっとうして豊かに暮らした。これなど、盜蹠のどんな行いの良さに依ったものだといえるのか。
 これらの先例から、天道のもたらす神意の実態は明らかなようではある。


 やはりこの現代でも,人倫や法に背いた行いを続け、それで終生豊かに楽しく過ごして子孫まで繁栄している例は枚挙に暇がない。
 あるいはその逆で、しかるべきときに正論を主張し、安易な妥協をせず、世のため人のためといった公平な問題でなければあえて怒ることもないような正義の者がトラブルに襲われ,不運な目に遭うというケースが、これまた数え切れない。
 

 わたしは大いに惑わされてしまった。

或所謂天道是邪非邪


 あるいは、いわゆる“天道”とは,「」なのか「」なのか,と。

伯夷列伝第一 vol.61

其伝曰伯夷叔斉孤竹君之二子

 古い伝記*1に拠ると,伯夷と叔斉は孤竹侯を父に持った貴公子兄弟であった。
 その老父孤竹侯は、かねて年少で可愛がっていた弟の(叔)斉に地位を相続させたいと望んでいた。いざ父侯が亡くなると、叔斉はやはり長兄の(伯)夷にこそ継承権があると考え兄に譲ろうとしたが、伯夷は「父の遺言であるから」として辞退し、故国を去っていった。すると叔斉もまた周囲の説得に応じることなく、相続を放棄して宮廷を逃れ出て兄を追っていってしまった。残されたひとびとは、ふたりとは別の公子(次男)を擁立するしかなかった。


 その後、伯夷と叔斉は、西方の大勢力者である西伯昌が善政を敷き,他国からの客を手厚く遇しているとの評判を聞き、その領土である周の国に向かっていった。ところが、かれらが到着したとき、西伯はちょうど亡くなった。その嫡子が後を継ぎ、自らを“武王”と称し、父の昌にも“文王”の称号を追贈してその位牌を掲げ、いよいよ天下の主である紂を打倒する東方遠征に繰り出した時期と重なってしまったのである。

 伯夷と叔斉は、周の軍隊の前に立ちふさがり、武王を諌めて言った。

父死不葬爰及干戈可謂乎以臣弑君可謂

 “亡父の葬いもせず戦争をすることは、とは申せません”
 “臣下の身分で君主を討伐しようとすることは、とは申せません”


 武王の側近たちはこの兄弟を捕らえ,出陣の門出に血祭りにあげようとした。が、軍師の太公望がそれを止め、「かれらこその人である」と弁護し、解放させた。

 そののち、武王は東方遠征に勝利し、殷王朝を打倒して周を天下の覇権国家とした。

而伯夷叔斉恥之義不食周粟

 伯夷と叔斉は新時代になり、天下の新主となった武王の不義をやはり糾弾し続け,ハンガー・ストライキを敢行した。首陽山でわずかにぜんまい程度の野草で飢えを紛らす生活を選んだのである。


 かれらは餓死した。

 その死の直前、歌を作って遺した。その歌詞にはこうある―

登彼西山兮
采其薇矣
以暴易暴兮
不知其非矣
神農虞夏忽焉沒兮
我安適帰矣
於嗟徂兮
命之衰矣

 かれは,西の山に登ったんだ
 そこで,ささやかな野草だけを食べた


 暴力で暴力に対抗してしまっては 
 そのあやまちには気がつかない
 やさしき神農も虞(舜王)も夏(禹王)も,もういない


 おれは,どこにも帰れない,安らぐことはない
 ああ,どこにゆこう 
 これも運命 この命は尽きてゆくだけ




 ―彼らの伝記やこの歌から、もういちど追憶してみたい。

  かれらは恨まずに死んだのか?


 こういう人*2もいる。

天道無親常与善人

“天の神は公平だから いつだってひとの善なるものとともにある”


 伯夷と叔斉のようなひとは、善なるものではなかったのだろうか。
 仁を積み,清廉潔白に暮らして、それでもなおこのような餓死の悲運に見舞われたのに―

*1:呂氏春秋』誠廉篇,『荘子』譲王篇など

*2:老子』第79章

伯夷列伝第一 vol.61


いまや“学問”といっても、膨大な領域にデータベースの蓄積がある時代である。
 まずは『六芸』*1の記録をスタートラインとして、考察・検討を始めるべきだろう。

 『詩経』と『書経』からは、文献全体は現存していないとはいえ、虞氏 舜王,
夏朝 禹王の時代の出来事を知ることができる―

堯将遜位讓於虞舜舜禹之間嶽牧咸薦乃試之於位

 堯がみずから引退を決意した際は,舜を選んでその地位を譲った。
 同様に、舜と禹が交代した際には、中央・地方の重役たちからの総推薦があったうえで、試用期間として数十年の実績を上げてから、正式に地位を譲られた。
 “天下の重器”である王統の継承として、名誉ある政権交代にはこうした慎重な経緯が課せられていたことを示している。


 ところが『荘子』には違う経緯もあった(Another History)記載がみえる。

堯讓天下於許由許由不受恥之逃隱

 堯は天下の統治者の地位を許由に譲ろうとしたのだが、許由は辞退し、そのことを恥じて引退し公職の世界からリタイアしていった。
 また夏の時代には、卞隨、務光という者が、それぞれ抜擢されることを拒んだ、と。
 何を典拠にしてこのような由来があるのだろうか。


 史家として―

 私は箕山に登ったとき、その頂上に許由の墓があるという伝承を知った。許由は実在した人物であろう。
 かの孔子は、古代の仁・聖・賢者について、たとえば太伯や伯夷といったレジェンドの事跡を詳細に序列立てて書き残してくれた。なのに、許由たちのことについては(私は、かれらの履歴もとても重要なものであろうと思う)、一切触れられていない。どうして、偉大な思想家であり歴史家であり、自らも政治家として規範を示した偉大なる孔子は、去っていった者たちのことについては記録しなかったのだろうか。

 孔子は言う,

伯夷叔斉不念旧悪怨是用希求仁得仁又何怨乎

 伯夷と叔斉はだれかの旧悪を恨むことがなかった。彼等が自らの意志を貫き“仁”であることを望んで,そのようにしただけのこと。何も恨みがましいことはなかった」,と。

 私は、伯夷の真意を悲しく追憶したい。孔子一門には“散逸した”とされて『詩経』に収載されなかった彼らの古詩を読むに、それは違うと思うのだ。
 

*1:『六経』の別の呼び名。『詩経』『書経』『礼記』『春秋』『易経』の『五経』と、現在は散逸した『楽記』のこと

太史公自序 巻七十,その最後の宣言。 vol.130

太史公曰:余述暦黄帝以来至太初而訖,百三十篇。

 史家として―
 私は,偉大なる黄帝の御世から現代*1に至るまで,千年間の歴史を叙述する。

 130の物語として。        司馬遷
  


  東洋最大のヒストリアンでありエディターであった太史公 司馬遷
  つれづれにそのよすがに,史記の世界にひたりたい今朝の気分です。

*1:太初年間:紀元前104〜101年