伯夷列伝第一 vol.61
其伝曰伯夷叔斉孤竹君之二子也
古い伝記*1に拠ると,伯夷と叔斉は孤竹侯を父に持った貴公子兄弟であった。
その老父孤竹侯は、かねて年少で可愛がっていた弟の(叔)斉に地位を相続させたいと望んでいた。いざ父侯が亡くなると、叔斉はやはり長兄の(伯)夷にこそ継承権があると考え兄に譲ろうとしたが、伯夷は「父の遺言であるから」として辞退し、故国を去っていった。すると叔斉もまた周囲の説得に応じることなく、相続を放棄して宮廷を逃れ出て兄を追っていってしまった。残されたひとびとは、ふたりとは別の公子(次男)を擁立するしかなかった。
その後、伯夷と叔斉は、西方の大勢力者である西伯昌が善政を敷き,他国からの客を手厚く遇しているとの評判を聞き、その領土である周の国に向かっていった。ところが、かれらが到着したとき、西伯はちょうど亡くなった。その嫡子が後を継ぎ、自らを“武王”と称し、父の昌にも“文王”の称号を追贈してその位牌を掲げ、いよいよ天下の主である紂を打倒する東方遠征に繰り出した時期と重なってしまったのである。
伯夷と叔斉は、周の軍隊の前に立ちふさがり、武王を諌めて言った。
父死不葬爰及干戈可謂孝乎以臣弑君可謂仁乎
“亡父の葬いもせず戦争をすることは、孝とは申せません”
“臣下の身分で君主を討伐しようとすることは、仁とは申せません”
武王の側近たちはこの兄弟を捕らえ,出陣の門出に血祭りにあげようとした。が、軍師の太公望がそれを止め、「かれらこそ義の人である」と弁護し、解放させた。
そののち、武王は東方遠征に勝利し、殷王朝を打倒して周を天下の覇権国家とした。
而伯夷叔斉恥之義不食周粟
伯夷と叔斉は新時代になり、天下の新主となった武王の不義をやはり糾弾し続け,ハンガー・ストライキを敢行した。首陽山でわずかにぜんまい程度の野草で飢えを紛らす生活を選んだのである。
かれらは餓死した。
その死の直前、歌を作って遺した。その歌詞にはこうある―
登彼西山兮
采其薇矣
以暴易暴兮
不知其非矣
神農虞夏忽焉沒兮
我安適帰矣
於嗟徂兮
命之衰矣
かれは,西の山に登ったんだ
そこで,ささやかな野草だけを食べた
暴力で暴力に対抗してしまっては
そのあやまちには気がつかない
やさしき神農も虞(舜王)も夏(禹王)も,もういない
おれは,どこにも帰れない,安らぐことはない
ああ,どこにゆこう
これも運命 この命は尽きてゆくだけ
―彼らの伝記やこの歌から、もういちど追憶してみたい。
かれらは恨まずに死んだのか?
こういう人*2もいる。
天道無親常与善人
“天の神は公平だから いつだってひとの善なるものとともにある”
伯夷と叔斉のようなひとは、善なるものではなかったのだろうか。
仁を積み,清廉潔白に暮らして、それでもなおこのような餓死の悲運に見舞われたのに―